自己憐憫からの脱却

先週末、妻と映画を観に行った。The Diving Bell and the Butterflyと題された映画だが、それもフランス語の原題からの英語訳である。日本でも上映中のようだが、日本語のタイトルは「潜水服は蝶の夢を見る」らしい。

脳出血で全身不随になった中年男性の物語である。意識は完全にあり、記憶も判断力も創造力もあるが、動くのは左目とその上のまぶただけである。聴覚はあり、他人の話す言葉は判るが、返事する事は出来ない。

左まぶたを一回瞬きすればウィ(はい)、二回すればノン(いいえ)と言うルールで何とかセラピストの尋ねる質問には答えられるが、それ以上の意思は伝えられない。もどかしい日が続き、彼は絶望のあまり、死を願うが、自殺さえ一人では不可能である。

ベッドに寝ていると有名ファッション雑誌の編集者として人生を謳歌していた時の記憶が蘇り、それがまた彼の悲しみや苦しみを倍加する。愛する妻や子供がおり、それ以外にもガールフレンドもいて、満ち足りていた生活が一転した。

まるで海の底で、重たい鉄の潜水服に閉じ込められたような生活になった。全てが周りの人の手を煩わせてしか生きて行けない。生きる価値はないようで、暗く灰色の日々が続く。しかしある時に彼は気付く。自分で自分を憐れみ続けても、何の結果も得られない事に。

過去の記憶と、現在の感情、そして未来への想像力が残されている事に気付いた彼は自分を憐れみ、歎き、悲しみ、苦しむ事を止める決意をする。それは本を執筆する事だった。セラピストの献身的な協力を得て、この無謀な挑戦が始まった。

セラピストが発音するアルファベットに左まぶたを瞬きさせて文字を拾い、一つの単語にする。気が遠くなるような努力である。しかし彼はそこに自由を象徴する蝶の姿を見た。20万回の瞬きの後に原稿が完了した。そしてそれは一冊の本となり、愛する家族に捧げられた。

昨年のカンヌ国際映画祭で監督賞と高等技術賞に輝いているが、映像はかなり斬新で実験的である。米国でもゴールデン・グローブ賞の監督賞や外国映画賞を獲得し、近く行なわれるアカデミー賞にもノミネートされている。

それにしても人間は自分の気持を切り変えるだけで、このような凄い生き方が出来るものかと驚いた。この実話の主人公程ではないが、人間には大なり小なり自分を憐れむ傾向がある。自分の不幸や不運を歎き、愚痴を言い、怒り、悲しみ、世を呪う。

しかしそれは鉄の潜水服である。自己憐憫を止めて、残されたものを見て、前に向かって挑戦する事で蝶に象徴される自由が得られるのであろう。本の出版後、彼は亡くなったが、彼の思いや魂は家族のみならず、世界の多くの人々の心の中に生き続けるだろう。(終わり)

[鶴亀 彰]

 

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