1月15日 |
伊号第166がK-16をボルネオ沖で撃沈した1941年のクリスマスの日の日本側記録や関連資料をカチャさんに送り、感謝される。 |
1月20日 |
ロンドンから訪れた恵子ホームズさんとフィリピンからの帰りに鶴亀宅に宿泊したデュエイン・ハイジンガーさんと一緒に会談。 |
3月11日 |
伊号第166戦没者遺族探しの旅に出発。4月6日にロサンゼルスに戻るまでの4週間、四国と九州方面の護国神社や地元新聞社等を訪問し、22名のご遺族と連絡が取れる。その間、後に大きな幸運となるいくつかの出会いがあった。14日には東京のある教会で行われた集い(恵子ホームズさんのアガペ・ネットワーク)で元英国海軍将校の男爵、サー・ピーター・アンソンに出会い、16日には日本財団の山田吉彦船舶部長とマラッカ海峡協議会の佐々木生治さんにお会いする。21日には熊本で佐鎮潜航会事務局長の松村堅さん宅を訪問。佐世保の東山海軍墓地に佐世保鎮守府所属であった伊号166の潜水艦慰霊碑があることを知り、機関紙「潜望鏡」をいただく。26日に佐世保を訪問し、慰霊碑にお参りする。 |
4月28日 |
サー・アンソンよりメールが届き、ウィリアム・キング艦長が94歳でまだご存命で、アイルランドの古城にお住まいとの情報を入手。 |
5月5日 |
判明した22名の遺族と、調査に協力してくれたメディアや舞鶴や佐世保の海上自衛隊関係者に、遺族探しの旅とキング艦長発見の報告書を送付。 |
5月20日 |
アイルランドのオランモア城を訪れ、キング艦長と娘のレオニ-さん夫婦、孫のヘザーさんなどと、3日間に渡り、会い語る。妻と息子もロサンゼルスから同行した。オランダからカチャさんも合流。 |
6月2日 |
長崎県の吉原ゑみ子さんからメールが届き、向井栄さんに関して問い合わせあり。その後、吉原さんは長崎県出身戦没者の遺族探しに努力され、新たに5名のご遺族と連絡が取れた。 |
7月17日 |
伊号第166沈没後60年目にして最初の慰霊祭を東山海軍墓地で開催。20名余りの参加者あり。松村堅さんに式次第を取り行ってもらう。「伊一六六 潜水艦忌 蝉時雨」(吉原ゑみ子さんのお友達の俳人、高田緑風さんの句) |
7月30日 |
パキスタンを取材旅行中のTBS萩原豊さんから、鶴亀の現地の友人、白井真理子さんから聞いたとのことで、パキスタンよりメールが届く。父と潜水艦を求めての旅に関心があるので、そのうちに会いたいとの要望あり。 |
7月31日 |
アイルランドのトム・フラナガンさんからメールが届き、同地で制作中のキング艦長に関するドキュメンタリー映画出演依頼を受ける。 |
8月6日 |
カチャさんからもメールが入り、オランダ海軍と潜水艦遺族会が共同で記録に残しつつあるボルネオ沖のK-16探索ドキュメンタリーに日英蘭三つの潜水艦家族の交流場面を含めたいとの要請。 |
8月15日 |
トーランス市の地元新聞、ディリー・ブリーズに三つの元敵同士だった潜水艦家族の友情がトップ記事として掲載される。 |
8月16日 |
多くの読者から電話があり、その中に真珠湾攻撃英雄のエディ・ブルックスからのものもあった。 |
8月20日 |
オランモア城に今回はカチャさんと三人の子供、鶴亀親子三人が再度集結し、キング艦長の家族や友人と3日間を撮影や歓談で過ごす。戦争第三世代の手で、お城の庭に平和と友情を願い、リンゴの木を植樹。 |
8月24日 |
英国の王立海軍潜水艦博物館を訪れ、ジョージ・マルコルムソンさんに感謝を表明。ロンドン郊外のサー・アンソンご夫妻にも電話でお礼と報告。 |
10月1日 |
マラッカ海峡協議会のご支援により、10月8日まで、伊号166の探索を行う。鶴亀とTBSの取材班3名が同乗。キング艦長の証言や日本側の記録と合致する場所で、それらしい物体を発見するも、最終確認には至らず。 |
10月9日 |
ちょうど1年振りでロイヤル・セランゴー・ヨットクラブを再訪し、ジョン・ファーガソンさんに再度のお礼とその後の報告をする。キング艦長発見を喜んだファーガソンさんは、それが三十数年前に英国海軍で自分の上官だったサー・アンソンの協力のおかげだったことを知り、不思議な偶然に驚く。 |
10月10日 |
ペナンを訪問し、伊号166戦没者の今生最後の陸地となった日本軍潜水艦基地跡やペナンヒル等を回り、父や戦友の皆さんを偲ぶ。 |