今日は私が通った小学校の百年記念式典が行なわれる日である。日本時間の二月十七日である。今頃あの懐かしい学び舎で粛々と行なわれているに違いない。太平洋のこちら側から、懐かしく、そしてほほえましく、その模様を思い浮かべている。
私が昭和二十二年(一九四七年)四月から昭和二十八年(一九五三年)三月まで学んだ小学校は照島(てるしま)小学校と言い、鹿児島県いちき串木野市にある。明治の終わりから、大正、昭和、平成と歴史を重ねて来た。創立以来、建物は変化したものの、場所は変わらない。
近くには日本有数の海岸である、白砂青松の吹上浜があり、今でも海亀が産卵する場所として知られている。昔は一面の畑だった学校の回りは、最近いくらか住宅化が進んだものの、今でも田園風景の名残がある。山あり、畑あり、海あり、半農・半漁のひなびた土地である。
浜での水泳や貝堀り、春のれんげそう畑で寝転びながら見上げた白雲が浮かぶ青空、夏の田んぼでのオニヤンマ釣り、秋の運動会、思い出すと次々に懐かしい情景が浮かんで来る。浜競馬や大綱引きなどの行事も楽しかった。
百年も続いて呉れると嬉しい事がある。それは父も母も、そして伯父・叔父や伯母・叔母、従兄弟や妹など、親戚や身内中が同窓生である。第二期卒業生には伯父の名前があり、九期卒業生には父、十六期卒業生には母の名前がある。私は四十四期卒業生なので、父と母はそれぞれ三十五年と二十八年、私の先輩である。妹は三年後輩になる。
学校のモットーは「波濤を越えて」であった。子供達が将来の人生で、その荒波に負けず、強く、正しく、生き抜いて欲しいとの願いが込められている。そのモットーのもと、百年間の間に一万人近い子供達が育って行った。きっと様々な人生があったに違いない。戦いで死んだ者も少なくない。私達の同級生でも医者になった者、ヤクザになった者、警察官になった者など本当に人生色々であるが、多くの卒業生が真面目に実直に波濤を越えて来たのではと思う。
七歳から十二歳と言う時期は人間の知育・体育・徳育の基礎が築かれる大切な六年間だといわれる。感受性もフレッシュで、吸収力も強い。豊かな情操や思いやりの心などが育まれる年齢である。私は今、その時期を照島小学校で過ごせた事に心から感謝している。これから更に百年、多くの後輩達が学び、楽しみ、そして人生の波濤を強く生き抜いて欲しいと思う。(終わり)
[鶴亀 彰]